呉 陽 慧(オウ ヤンヘ ・oh yang hae)・・・大阪生まれ
アーチスト + ルノルマンカードリーダー・講師
履歴書のようなプロフィールを書いても、きっと、私がどんな人なのかを知っていただけないと思います。
人生の今までを振り返って、どうして、今、私が絵画やルノルマンリーディングに
かかわっているのかを知っていただき、心を通わせたセッションをさせていただきたい
と思い、自伝のようなプロフィールを書きました。
お読みになって、共感する方、驚く方、いろいろいらっしゃると思いますが、
これも、あなたとの出会いのひとつです!
読んだだけで元気になってもらってもいいかなと思います。
ですが、できるなら、対面でリーディングをさせていただき、未来を一緒に作っていき
たいと思っています。
どうぞ、よろしくお願いいたします 💕
プロフィール part1
2012年5月20日は、金環食の美しい光の環が出現した母の葬儀の日だった。
火葬場からの送迎バスの中で、叔父から母は、大阪府立山本高校の出身だと聞かされた。なんだ私や姉の大先輩だったんだ! どうりで日本の歴史にも詳しく、80代になってもよく本を読んでいたんだ・・・6人の子供たち(姉・私・弟・妹・妹・妹)は、母が答えるまま小学校も卒業していないと思い込んでいて、履歴書には、父小学校卒、母小学校中退と書いていたのに・・・
日本で生まれた韓国人の母は、13・4歳くらいまではそんなに貧しくはなかったようだ。鋳物工場で儲けたトランクいっぱいのお金が、ある日突然、紙くず同然になったのよ、と言っていたから・・・
しかし、母の人生はその後も結婚してからも、貧しさとの闘いの毎日だった。
私が小学6年生の頃、ドシャ降りの雨の中を「おかしい、千円が足りない! 落としたんや」と、ずぶ濡れになりながら何度も1000円札を探しに行った母の姿を思い出す。水道が引けなくて、せめてミルク用の水だけでも水道水を分けてほしいと、近所に頼みに行っても「朝鮮人にはヤラン」と言われ、泣いていた母。私たち家族(祖父母合わせて10人の大世帯)は皆それぞれが、悔し涙をよく流した。
でも、なぜか気持ちはいつも前を向いていたように思う。 母は「見えないものでもあるんだよ・・」と語る、金子みすずが好きだった。好奇心と創造力があり、手先が器用でセンスあふれる手編みのセーター類を次々と作っては、子ども・孫・友人たちにプレゼントして喜ばれた。そんな母から私は、創造力と手先の器用さを受け継いだ。
父はハンサムで、高潔な人だった。韓国済州島で生まれたが、6歳の時、日本に渡っていた祖父のもとにやって来た。本当は、貿易の仕事がしたかった父だが、私が知っているだけでも、10以上も仕事を変えて、最後はヤミ米屋で家族を養い、小さなアパート経営をして6人の子ども全員、私立大学を卒業させた。父は、教育の大切さを誰よりも理解し、何よりも優先してくれた。
人生の後半は、キリスト教会の長老という奉仕の役職を続け、教会での葬儀も本当に誇らしい立派なものだった。
父は勤勉で努力家だった。ジナ・サーミラナ著の「転生の秘密」に触発され、エドガー・ケーシーの本を次々に熟読していた。小学校しか出ていなくても、精神世界の難しい本や、量子物理学に関する本まで熱心に学んでいた。
習ってもいないのに習字が得意で、「信仰・希望・愛」などの気に入った聖句を書にしたためて額装して、遺品として子どもたちに残した。私は、家族を愛する心と責任感、向学心を父から学んだ。
私は、ルノルマンカードリーディングの仕事を一生続けていこうと思っています。私がリーディングをする時、ルノルマンカードを教える時は、常に高次元の世界にいる父母や光の存在たちが見守り、アドバイスを送ってくれます。
だから、何があっても安心で、希望に満ちています。
プロフィール part2
私は、幼い頃から光・水・石・色彩が好きだった。
祖父母の代からクリスチャンだったので、祖母に連れられ大阪鶴橋にあった教会に、一張羅の赤いビロードのワンピースを着てよく行った。わからない説教や讃美歌の間はじっと座って、服の胸についているガラス玉の飾りに反射する、たくさんの美しい光を眺めて遊んだ。キラキラの光玉とオルガンの響き、天上にいるような心地よさだった。
その教会では、バプテスマのヨハネに習って大がかりな水の洗礼を行った。洗礼式の当日は、説教壇の後ろがプールのようになり、黒い服を着た牧師先生が、白い服を着た受洗者を一人ずつザーッと水に浸ける。
晴れた日は、太陽光がその水滴に反射して、本当に神様から祝福されているような光景だった。水と光は、天からの贈り物。私の幼少期は、貧しくとも豊かさに満ちていた。
私たち姉妹は、成績優秀で近所でも評判だった。だからかどうか、朝鮮人差別をする人も陰で噂はしても、面と向かってする人は少なくとも私にはいなかった。だけど、就職となると厳しい。
「美大に行くのは許さん。飯が食えん!」との父の一言で、同志社女子大学に行き家庭科の教員免許を取得したが、同窓生達が初任給7万円で働きだしても、私には道がなかった。職を求めて通信で小学校の教員免許を取り直し、韓国系の小学校教員の働き口を見つけた。
給料4万円だった。
若者たちが社会に向かって様々な闘いをしていた当時、私も自分自身のアイデンティティーと生き方を求めて、在日韓国キリスト教会の青年会や朝鮮人学生の集まりの中で、民族差別をなくす運動に取り組んだ。
そんな中、とても真面目な男性と出会い、運動を共にし、結婚をする約束をした。
しかし私は、結婚式直前の1週間前、「結婚しない」と宣言して大阪を離れた。周囲の混乱と非難の中、私は自分の「第六感」を信じて安堵していた。その選択は、私の人生で最も正しい選択の一つだった。
それは、私の魂が、運動・男女関係・家族関係・・・などのあらゆる束縛からの自由を求めて導いたことだった。 結婚を取りやめた後私は、横浜の韓国キリスト教会の保育園、大阪の生野区を中心とする地域活動、韓国系の小学校教員と、主に在日韓国人社会の中で生きてきた。
が、それは日本の中の限られた社会だ。
少しでも広い世界を求めて、経済的には苦しくなるが小学校教員を辞し、日本のミッションスクールで家庭科の非常勤講師を6年間続けた。
収入を得るために、いろんな手作りのバッグや人形を作っては、フリーマーケットで売った。浄水器も売り歩いた。母の手編みのセーターまで売ってひどく叱られたものだ。おかげで、縁があって、広島のミッションスクールの専任教員として職を得ることができた。
職は食だ。経済的に自立すると、心にもゆとりがでてきた。 私は今までの運動中心の生活から、本来やりたかった表現の世界へ、光と水と色彩で表現する創造の世界へと動き出した。それとともに、高次元の科学、スピリチュアルな世界に今まで以上に関心を向けることができた。充実した日々だった。
2004年、私は安定した教員生活を早期退職して、アートの仕事を始めた。「金にならん」と言った父の言葉は正しかったけれど、自由で楽しい毎日を過ごしている。 「アトリエラアム」という名前を付けて、現在は奈良県生駒市に拠点を移し、「臨床美術」の教室を開いて活動している。
アートの仕事は、スピリチュアルな活動だ。
作品という見える形も大事だけど、制作する行動は、見えない世界の私たちの魂の表現そのものなのだから。
私がルノルマンカードに惹かれたのも、36枚のカードに描かれた見える画像の奥にある深遠な世界を感じたからです。生きとし生けるものは、高次の世界の映し絵です。